読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

こころの息吹

「‘わたしとは何?’を探究」するこころの旅路を徒然なるままに綴っています♪♪

【空手6&7日目】「手の先足の先まで意識することで在りかたが変わっていく」という体感

《師範のお話》

 何をしていても、道場。

 何処にいても、稽古。

 

 

それは決して、

「どんな時も何をしていても

 空手に関することに励みなさい」

ということではない。

 

空手の稽古そのものに限らず、

普段の何気ない行動・発する言葉一つとっても、

本気で、真剣に、集中して、時に脱力して…

日常のあらゆることすべてが‘在りかた’を創り上げている。

 

日常のすべてが、

周りで起こる(映し出される)一つ一つが、

人生における稽古なのだろうと、そんなことを感じている。

そして目の前にある環境(場所)全部が人生道場そのもの。

 

 

…確かに。

 

 

自分の意識がどんな瞬間に研ぎ澄まされ、

その意識に自身がどれだけ気づいているのか。

 

何も気にしなかったら気にしなかったで、ただ通り過ぎるだけ。

気に止めなければ、きっとその瞬間は針の穴よりも小さいだろう。

気づいても、触れずに眺めるだけならばすぐに視界の外へと消えるだろう。

 

 

空手を始めてから、

空手を始める前後辺りから、

何度か気にしつつも見て見ぬふりしてきたことのいくつか、

ここにきてまとめてドバっと再燃している。

 

 ココロとカラダを繋げる

 陰陽五行説について学ぶ

 ナイチンゲールフィレンツェへの興味

 体幹インナーマッスルを鍛える

 蹴り足を意識して歩く

 腸内環境を整える食生活を考察して実践する

 ツォルキンと星と月の暦を意識した一日を過ごす

 

こんな感じのこと。

わたしの内側では、それらはすべて密接に関わっている。

うまい具合にピタッとはまっていて、絡み合っている素材。

 

それらを意識していくということは、

それらに本気で取り組んでいくという覚悟を決めることでもある。

そうだね…

今まで自分の意思に対する責任を他人事のように眺めていたから、

興味を持ったそれらのどれにしても本気でのめり込むことはなかった。

…おそらく、のめり込むのが怖かったのだと思う。

 

「本気になる」ということは「わたしを生きる」ということだから。

 

「自分を生きる」という自由の土台部分にある自己責任。

人のせいにして生きることにすっかり慣れてしまっているわたしは、

どうしても、マニュアルや説明書を必要としたり

常識という器や親の価値観という物差しの内側に居続けたり

興味や好きなことですら誰かのもの真似の延長に過ぎなかったり、となる。

 

そんな生き方に限界を覚え、嫌気がさし、

「自分を表現する」とか「わたしを魅せる」とか、

そういった視点に意識の矛先が向き始めている。

 

 

今は、そんな状態の中にあります。

 

 

人間は変わろうとするとき、本能的に

「元の慣れ親しんだ状態に戻るのだ」となるのですが、

今まさに、日々、そんな恒常性と闘っております。

 

辛うじて、空手の稽古に行くことで懸命に抗っている情況です。

 

「来月の昇級審査で色帯になる」という

具体的な目標ができて最初の照準が定まったおかげで、

より手足の動きや角度の意味や型の流れの順番を

身体にしみ込ませるための集中力が増したような感じがします。

 

それに伴って

安定した足腰をつくるための身体の使い方とか、

どこの筋肉をどう鍛えれば安定感のある振る舞いができるのかとか、

少しずつ、一つの物事に対して、深い部分に意識をあてています。

 

そんな微細な内側の変化を、

ツォルキンの260日周期や星や月のサイクルを書き込んだ手帳に

毎日日記として綴っていくことで、より感じとれるのではないか…

 

「意識すること」が一度に増えてしまったように感じていることで

何かと右往左往している自分が日々の時間の中に在るけれど、

空手と同様「訳分からない」からは一歩踏み出せているので、大丈夫。

 

 

あとは、怖気づかないで。

 

目の前に現れた意思をうやむやにすることなく、

1つずつ確実に、自分の血肉としていくだけ。

 

 

 

翠桜-Miou-